「帝紀」「旧辞」の『ホツマツタヱ』などヲシテ文献を読み解く!

『古事記』『日本書紀』の漢字翻訳前の原書が『ホツマツタヱ』です!

結局、5月の上京は延期しました。神道史学会のことなど。

お世話になっております、松本不二子さんも無事に退院の事、

さしあたっての上京の用事も無くなりました。

ホッとした半面、上京しないのも物足りない感が御座いました。

森田さんのお骨折りで、神道史学会とご縁が出来ました。

若いころから読んでいました、平泉潔先生の「日本」の系譜につながります。

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神道史学会で、ヤマトヒメさんのご遺跡を訪ねました。

ヤマトヒメ神社です。

何回も参拝はしてきていましたけれど、ご陵所に遡るのははじめてです。

大正時代の創建です。立派に古色蒼然としています。

すでに、100年ですか。もう、100年と言うべきでしょうか。

実際に、そのお墓は、すぐ近くにあったらしいです。

神道史学会の面々も、初めてのお方も多いようでした。

明治時代に、御幸道路を作ったり、市営住宅を建てたりして、

墳墓地のあった山は削ってしまったそうです。

それで、良く解らなくなっちゃって、です。

岡田登教授の発掘収蔵の貴重なお宝です。

あたり、グチャグチャの中からの発掘も大変です。

銅の合金の溶融遺物も拝見させてもらいました。

持ち重みする、truthの合金でした。カメラがうまくゆかずに撮れませんでした。

長さ3cmほどの塊でした。

ふたつあって、ひとつは銅と亜鉛が多かったそうです。

もうひとつは、銅と鉛が多かったそうです。

ともに、銅鐸の溶融物ではあるまいか? というのが、岡田教授の見解でした。

削採面の光沢は、ふたつともすばらしい金属光沢でした。

さすが、岡田先生です。錆びている小さな塊でも見逃さず、溶融物を発見なさいました。

さて、肝心の本当のヤマトヒさまのご陵のあった表土のところは、

結局のところ、削られてしまって、今は近鉄宇治山田駅のところの、

地盤改良に埋められたそうです。明治の頃は、そんなもんなのでした。

やむなしと言ったところで御座います。時代です。

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神道史学会の発表は、いろいろ面白かったです。

御所の「御黒戸」のこと、泉涌寺との関係の事、石野浩司さんの発表は素晴らしかったです。

ヘンな陰謀論的に話をややこしくする学者も多いのでした。

でも、真相は、至ってシンプルな事だったと、

石野浩司さんは、地道な考察作業から解き明かしてくださいました。

「御黒戸」は、さまざまな女官さんたちのこころの依り代の集合体。

そう言った理解が、いちばんそぐわしい。

こんな風な理解で良さそうだと思います。

石野浩司さんは、泉涌寺に、10年お通いになられたとのことです。

それぐらいは掛かったと思います。貴重な報告で御座いました。

有り難い事で御座います。

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さて、翻って、ヲシテ文献に理解を求める方の感覚は、

まだまだ先の先の、もっと先の、お話しになるような雰囲気です。

漢字文献の常識で理解できるように「訳して」もらったら、

ちょっとは考えてみてもいいかも? のレベルです。

まだまだ、まだまだ、先の先のお話しで御座います。

それで、森田さんとも、帰り道筋で「長生きしましょう!」 と、

誓い合いました次第で御座いました。

日蓮上人の誓いの井戸がありました。

ムラサキシキブの花が咲いていました。

 

高山彦九郎のこと

高山彦九郎三条大橋の奉拝の像をゆっくり見るのは初めてです。
高山彦九郎は、寛政の三奇人のひとりとも言われます。他の奇人。蒲生君平林子平も、国家の枢要を見直して天皇陵墓を整えようとしました。また、国防についても展望を世に広めました。
高山彦九郎は、朝廷を敬い奉る精神を世に広めました。

三条大橋のたもとに高山彦九郎が居ます。

高山彦九郎林子平蒲生君平の寛政の三奇人の活躍があって、吉田松陰も出現したようです。

西欧の植民地に組み込まれなかったのも、先鞭を付けてくれたのは、寛政の三奇人の出たおかげもあったようです。
さて、高山彦九郎、地元では「ドゲザ」と言われかんばしくない評判もあります、が、何と言われようとも植民地化防止の功績は評価されます。
珍しく、京都でダンスパーティ。楽しく日々が送れるのも寛政の三奇人のおかげです。そのご恩をお返しするのは、「ヲシテ国学」を樹立してゆく事こそです! いつまでも、外来文化に席捲されたままでは、クニトコタチさんに申し訳ないです。外来文化を咀嚼して取り入れることが出来ることこそ、大文明の証です。

クニトコタチさまは「トのヲシテ」の精神という素晴らしいスピリッツをお作りくださってあったのですから。

そう考えましたら、歴代の天皇陛下を顕彰するのも大切です。

なによりも、本当のわが大文明のキモの「トのヲシヱ」を、

今に顕彰してゆくことこそ大切だと考えます。

 

松下見林は、江戸初期の人でした。

応仁の乱以降、朝廷は財政もひっ迫していました。

川端道喜(かわばたどうき)の道喜の粽屋さんが、御所の破れた築地塀から

朝ごはんを届けていたのでした。川端道喜は見るに見かねて、

毎朝朝ごはんの「御朝物」と呼ばれる餅を御所に届けていたのでした。

後柏原天皇さんは「御朝物」をと呼ばれる餅を心待ちにしておられたそうです。

江戸時代になっても、「御朝物」と呼ばれるお餅の献上は続いていました。

いくらなんでも、マトモな事ではありません。

松下見林は、歴史の見直しを志したのでした。

www.wul.waseda.ac.jp

松下見林が『前王廟陵記』を選じたことから、のちに、蒲生君平が『山稜志』を編む事につながります。

そして幕末になり、陵墓も大改修されることになりました。

それまでは、陵墓なんて、田んぼの中の土饅頭で、邪魔者扱いされるのが関の山でした。

濁点の歴史

沼本克明さんの『濁点の源流を探る』(汲古書院

濁点がどういう経緯で、国語に入ってきたのか?

漢字国字化時代以降の歴史が良く解ります。

要点は、

外国語のChina語や悉曇サンスクリット語)を、

国語表記してゆくうえで、濁点が考案されて活用されるようになった。

ということです。

しかるに、

ヲシテの表記にも、その反映が、

外二点濁点としてくっ付いてきたと理解されます。

  下の表は『記紀原書ヲシテ 増補版』の上巻の末尾の見開きに掲げたものです。

  伝承時代の付加の、外二点濁点は参考程度に見てもらうと良いです。

  伝承時代の、漢字国字化時代以降の人が、読み易いようにと付加したのが、

  外二点濁点ですね。

中側の一点濁点はヲシテ時代にも遡るとも考えられます。

ヒゲ(鬚)の濁点もヲシテ時代にも遡るとも考えられます。

国語は、時代とともに発展変化してゆきます。

現代も劇的な変化をしつつあります。

「トのヲシヱ」は新発見の概念です。呪術ではありません。

ヲシテ文献の発見と研究によって、

「トのヲシヱ」あるいは「トのヲシテ」の概念の発見が出来ました!

わが国の、縄文時代における立憲君主国家としての、

国家像の発見です!

その大切な事! わが国は、縄文時代から文明国であったと言う、

大発見です!

これが、「トのヲシテ」の大切な秘密です。

 

ひとくちに、「トのヲシヱ」を説明するにも、

一苦労です。

『ホツマ辞典改定版』(池田 満、展望社)でまとめた文章が、

わかりやすいです。

この、わが国の「縄文文明」建国の大切なキーワードの、

「トのヲシヱ」・「トのヲシテ」を、

事もあろうことに、直訳して「瓊の教え」とするのは、

呪術でわが国が運営されていた、と言いたいがための意図が込められています。

昭和の敗戦後に、占領軍が魏志倭人伝を歴史の礎に置いたのと同じ行為です。

これは、まったくもって「おとしめ(貶め)」のやり口です。

そのことから、「瓊の教え」の直訳を見聞きするたびに、

背筋にゾッとするモノが走ります。

なお、「トのヲシヱ」での建国の有り様について、

『ホツマツタヱを読み解く』で詳しく説明してあります。

「縄文文明」建国を解き明かしたのは、

実にわたくしを嚆矢(こうし・物事の初め)としています。

ですので、『ホツマツタヱを読み解く』は記念碑的な書物です。

是非ともお手元にお備え下さい。

皇學館大学の庭に、盛り上がった根がありました。

   トのミチの まこと尊し

   おさえても もだえうねれる

   ちからあふれて

わが国の大文明は、漢字以前の大文明に始まります。

漢字に押さえつけられても、仏教に押さえつけられても、

西欧思想に押さえつけられても、

やがてうねり上がってくるものです。




 

「八紘一宇」のこと、『日本書紀』だけにあります

有名な言葉の「八紘一宇」は、ヲシテではどうなっていますか?

と、質問がありました。

早速に、調べてみましょう。

『定本(ていほん)ホツマツタヱ』です。456ページに「八紘一宇」の言葉の

出典があります。その前のページから見てみましょう。

『定本(ていほん)ホツマツタヱ』455ページです。

次の456ページの一行目に、「八紘一宇」が出ます。

古事記』は、真っ白ですね。

ヲシテの『ホツマツタヱ』にも記載がありません。

と言う事は、「八紘一宇」の言葉は、『日本書紀』の創作挿入の文章だったことが

明白になります。

参考に掲げました、455ページの『ホツマツタヱ』38アヤ54ページの

   カはカミの あまねくてらす

   モはシモの アオヒトクサを

   てらさんと

 の、精神とは大きく開きがあると感じられますか?

38アヤ54ページの文章は、本当の「わが国の精神です」。

それを、漢字文に翻訳して、尾ひれを付けたところ、

その尾ひれに「八紘一宇」の言葉が紛れ込んでいたわけですね。

重要なことは、皇孫の精神でした。

つまり、

   カはカミの あまねくてらす

   モはシモの アオヒトクサを

   てらさんと

の国民をわが子と思っていつくしむマツリコトです。

それを、世に広めようということです。

ところが、『古事記』・『日本書紀』には、アマテルカミ伝来の、

「アメのミチ」が記載抜けになってしまっています。

おまけに、アマテルカミは実在ではなく、雲の上。

やっと皇孫に至って地上に降りて来たと言う説明です。

もう、無茶苦茶も何も、『古事記』・『日本書紀』はひどい話にされてしまっています