高山彦九郎の三条大橋の奉拝の像をゆっくり見るのは初めてです。
高山彦九郎は、寛政の三奇人のひとりとも言われます。他の奇人。蒲生君平も林子平も、国家の枢要を見直して天皇陵墓を整えようとしました。また、国防についても展望を世に広めました。
高山彦九郎は、朝廷を敬い奉る精神を世に広めました。
高山彦九郎と林子平・蒲生君平の寛政の三奇人の活躍があって、吉田松陰も出現したようです。
西欧の植民地に組み込まれなかったのも、先鞭を付けてくれたのは、寛政の三奇人の出たおかげもあったようです。
さて、高山彦九郎、地元では「ドゲザ」と言われかんばしくない評判もあります、が、何と言われようとも植民地化防止の功績は評価されます。
珍しく、京都でダンスパーティ。楽しく日々が送れるのも寛政の三奇人のおかげです。そのご恩をお返しするのは、「ヲシテ国学」を樹立してゆく事こそです! いつまでも、外来文化に席捲されたままでは、クニトコタチさんに申し訳ないです。外来文化を咀嚼して取り入れることが出来ることこそ、大文明の証です。
クニトコタチさまは「トのヲシテ」の精神という素晴らしいスピリッツをお作りくださってあったのですから。
そう考えましたら、歴代の天皇陛下を顕彰するのも大切です。
なによりも、本当のわが大文明のキモの「トのヲシヱ」を、
今に顕彰してゆくことこそ大切だと考えます。
松下見林は、江戸初期の人でした。
応仁の乱以降、朝廷は財政もひっ迫していました。
川端道喜(かわばたどうき)の道喜の粽屋さんが、御所の破れた築地塀から
朝ごはんを届けていたのでした。川端道喜は見るに見かねて、
毎朝朝ごはんの「御朝物」と呼ばれる餅を御所に届けていたのでした。
後柏原天皇さんは「御朝物」をと呼ばれる餅を心待ちにしておられたそうです。
江戸時代になっても、「御朝物」と呼ばれるお餅の献上は続いていました。
いくらなんでも、マトモな事ではありません。
松下見林は、歴史の見直しを志したのでした。
松下見林が『前王廟陵記』を選じたことから、のちに、蒲生君平が『山稜志』を編む事につながります。
そして幕末になり、陵墓も大改修されることになりました。
それまでは、陵墓なんて、田んぼの中の土饅頭で、邪魔者扱いされるのが関の山でした。